歴史を知る
偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三名園」のひとつで、天保十三年(一八四二年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園されました。
HISTORY
偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三名園」のひとつで、天保十三年(一八四二年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園されました。
弘道館と偕楽園を対の教育施設として建設
数多くの独創的なアイディアを形にした
(好文亭内・日本初の荷物専用昇降機)
戸を開けずに室内の状況を確認するために杉戸の引手が透かし彫りになっています。斉昭の工夫と言われています。
(斉昭誕生~偕楽園開園まで)
偕楽園は、斉昭が藩主就任後に初めて水戸に国入りした天保4年(1833年)に構想されました。その時の思いは、「偕楽園記碑」の後半部分に記されています。
斉昭は藩内を見て回り、西に筑波山を望み、南に千波湖を接し、そして城南の景色を一望できる景観に感動しました。そして、その良さを尊び、さらに引き立たせるため、春に先駆けて咲く梅の樹を数千本植えて、国中の人々が楽しめる場となるよう考えました。
そして、次々に独創的な工夫をこらし、特に好文亭楽寿楼から展望される梅林、桜山、水田、茶園など周辺の景観も庭園要素として取り込んだ広大な全体像を構想し、天保12年(1841年)4月には造園工事にとりかかりました。
工事が終わり、翌13年7月1日には開園、同月27日に公開日を迎えました。
その後、幕末の志士なども訪れ、明治維新後は日本初の指定公園の一つになり、梅の名所として全国の人々に親しまれました。昭和20年8月2日の水戸空襲では好文亭をはじめほとんどの施設が消失し庭園は荒廃しますが、戦後10年を経て再建され現在も美しい水戸の名所として親しまれています。
偕楽園記碑より
偕楽園は弘道館と併せて楽しむように作られた場所だった
偕楽園記碑より
好文亭の西塗縁
何陋庵扁額より
偕楽園記碑より
真っ先に春が来る場所として。梅が実る場所として。
偕楽園記碑より
表門から続く孟宗竹林