日本三名園 偕楽園日本三名園 偕楽園

HISTORY

歴史を知る

偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三名園」のひとつで、天保十三年(一八四二年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園されました。

偕楽園を作った
徳川斉昭

弘道館と偕楽園を対の教育施設として建設

水戸藩第九代藩主

徳川斉昭とくがわなりあき

(1800年~1860年)
徳川斉昭(烈公)は、寛政12年(1800)に水戸藩第七代藩主治紀の三男として江戸の小石川藩邸で生まれました。長く部屋住みの身であった斉昭は、30歳で藩主に就任すると、すぐに藩政改革に取り組み、倹約の徹底、軍制の改革、追鳥狩、藩内総検地などを実施しました。のちに水戸藩天保の改革と呼ばれた諸政策の中で、特に力を注いだのが、藩校弘道館の建設と偕楽園の造成でした。
斉昭の多彩な才能
斉昭は水戸藩主として、水戸藩天保の改革をはじめ、医学・薬学への高い関心による痘瘡やコレラ予防などに卓越した指導力を発揮しました。また、一時は幕府の特別職に就くなど、一国の運命を担った政治家としても歴史に名を残しています。これらの政治家としての手腕のほかにも、弘道館や偕楽園(好文亭)の設計、作陶や多数の著作など、文化・教育に関しても独創的な考えで水戸藩を主導しました。

数多くの独創的なアイディアを形にした
(好文亭内・日本初の荷物専用昇降機)

園名「偕楽園」に込めた斉昭の思い
斉昭は、水戸藩の藩士は、弘道館で文武をしっかり修業した後には、心身をゆっくり休めて鋭気を養ってほしいと考え、一対の教育施設として偕楽園を創設しました。
その趣旨を記した「偕楽園記」には「余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」とあり、藩士のみならず領内庶民への開放も目的としていたことが示されています。「偕楽」とは、中国の古典である『孟子』の一節である「古の人は民とともに楽しむ、故にく楽しむなり」からとっています。
庭園構造における演出(「陰」と「陽」、周辺の景色を取り込む「借景」)や独自の発明(玉龍泉や吐玉泉)など、園内で見られる様々な工夫は、一つひとつが、斉昭の深遠な思想が具体化された作品とも言えるでしょう。
さらに、園内にある「偕楽園記」の石碑の裏側には、6か条の入園の心得が「禁條」として刻まれていることから、公共の利用のためのルールまで示された近代の公園に近い性格をもつ庭園とも見られています。

戸を開けずに室内の状況を確認するために杉戸の引手が透かし彫りになっています。斉昭の工夫と言われています。

徳川斉昭関係略年表

(斉昭誕生~偕楽園開園まで)

寛政12年(1800)
水戸藩第七代藩主治紀の三男として誕生
文政12年(1829)
水戸藩第九代藩主となる(30歳)
天保4年(1833)
はじめて水戸に帰国する(34歳)
4~5月に藩内を一巡し、藩内随一の景勝地「常磐」の高台
(元七面山と称した地)を見い出し、ここに遊園を設けることを決定
天保8年(1837)
天保の改革を始める(38歳)
天保12年(1841)
弘道館の創建(42歳)
天保13年(1842)
偕楽園の開園(43歳)
(その後の斉昭)
弘化元年(1844)
幕府の命で致仕謹慎(45歳)
嘉永2年(1849)
再び藩政関与を許される(50歳)
安政6年(1859)
安政の大獄、水戸に永蟄居(60歳)
万延元年(1860)
謹慎中の水戸城で没する(61歳)

偕楽園の歴史

偕楽園は、斉昭が藩主就任後に初めて水戸に国入りした天保4年(1833年)に構想されました。その時の思いは、「偕楽園記碑」の後半部分に記されています。

斉昭は藩内を見て回り、西に筑波山を望み、南に千波湖を接し、そして城南の景色を一望できる景観に感動しました。そして、その良さを尊び、さらに引き立たせるため、春に先駆けて咲く梅の樹を数千本植えて、国中の人々が楽しめる場となるよう考えました。

そして、次々に独創的な工夫をこらし、特に好文亭楽寿楼から展望される梅林、桜山、水田、茶園など周辺の景観も庭園要素として取り込んだ広大な全体像を構想し、天保12年(1841年)4月には造園工事にとりかかりました。

工事が終わり、翌13年7月1日には開園、同月27日に公開日を迎えました。

その後、幕末の志士なども訪れ、明治維新後は日本初の指定公園の一つになり、梅の名所として全国の人々に親しまれました。昭和20年8月2日の水戸空襲では好文亭をはじめほとんどの施設が消失し庭園は荒廃しますが、戦後10年を経て再建され現在も美しい水戸の名所として親しまれています。

言葉から読み解く斉昭の思い
~偕楽園記や石碑・扁額から~

徳川斉昭は自らの考えを石碑や扁額など様々な物に書き付け多くの人に伝えようとしました。それらは今でも偕楽園をはじめ水戸の各地で見ることができます。ここでは、主に偕楽園記碑を中心に、偕楽園に込めた斉昭の思いを言葉から読み解いていきましょう。

弓に一張一弛いっちょういっしありて恒に勁く

偕楽園記碑より

意味
弓の弦を張ったりゆるめたりするように、気持ちをひきしめたりゆるめたりすることが必要だと説いています。
思いを感じる場所

偕楽園は弘道館と併せて楽しむように作られた場所だった

六芸に優游して以てその業を勤む

偕楽園記碑より

意味
六芸(礼法、音楽、弓術、馬術、書道、算術)と呼ばれる様々な芸術や知識・技能をのびのびと修業することが大切であり、その場所を設けることを述べています。偕楽園内では自然に触れ、景色を眺め、音楽を奏でたり、好文亭で歌を詠めるようにしました。
思いを感じる場所
  • ・好文亭西塗縁(歌会)
  • ・弘道館正庁(扁額)

好文亭の西塗縁

巧詐不如拙誠

何陋庵扁額より

意味
巧みに偽りごまかすことは、つたなくも誠意をもってことに当たることに及ばないという斉昭ならではの茶の心構えです。好文亭をはじめとする、華美を廃した水戸藩の気風とも通ずるものがあります。
思いを感じる場所
  • 何陋庵かろうあん待合(扁額)

何陋庵かろうあん待合(扁額)

ここにおいて梅樹数千株を芸ゑ、
もって魁春の地を表はす。

偕楽園記碑より

意味
斉昭はここ(偕楽園)に数千株の梅の木を植え、真っ先に春が来る場所としました。また、梅の実を兵糧として有事の際の備えとしました。弘道館にも梅に対する思いを記した種梅記碑があり、現在でもこの2カ所が水戸を代表する梅の名所となっているのです。
思いを感じる場所
  • ・早春の梅林
  • ・梅落としの頃

真っ先に春が来る場所として。梅が実る場所として。

おのおのその性命を保つものは、
一陰一陽その道をなし、
一寒一暑そのよろしきをうるをもってなり

偕楽園記碑より

意味
すべての生き物がいのちを保っているのは、陰と陽、寒と暑など相反するものが自然の道理にかなって調和を保っているからであるという考え方です。斉昭は弘道館と偕楽園、神道と儒教、学問と政治など常に対立を意識し調和をはかるようにしていました。
思いを感じる場所
  • ・表門周辺(陰の世界)
  • ・梅林(陽の世界)

表門から続く孟宗竹林